訪中団に参加して中国観光雑感

           事務局 森下雅喜

 今回の関西遼寧協会訪中団は、公式行事は瀋陽での「あじあ号寄金」と「瀋陽日本語資料室の開所式」「天津の日系工場見学」で、他は「中国を観て回る」=観光でした。その中で印象に残った点を報告します。

 

 ●旅順

 旅順は外国人の立ち入り制限地域で、許可証があっても「旧ロシア監獄」や「博物館」には入れないということで、許可証不要の場所だけにしました。ちなみに許可証は、交通費を含めて500元(約6,500円)で、この値段を聞くと多くの人が許可証不要の場所だけにするか、もぐりで入るようです。

 先に水師営の日露会見場所に行きました。入場料40元。日露戦終結時に、日本側代表乃木将軍と露側代表ステッセル将軍が停戦について話し合った場所で、建物は十坪ほどの茅葺き、軍の治療所であったらしい。小説に出てくるナツメの木は今はなく、枯れたようなアカシア風の木が入り口に植えてある。73歳のN氏によれば、昔来たときには確かにナツメの木があったと言う。

 会見場は三部屋に分かれていて、全て土間。入った左が会見部屋で、丈高の木のテーブルと木の集合椅子が置いてある。テーブルの上に貼り紙があり、「ここは戦場の包帯所であり、このテーブルは施療台(手術台)であった」と書かれている。ここで停戦の話をし、表に出て記念写真を撮った。(73歳のN氏は、この写真は教科書で見たと言う。)

 次に二〇三高地へ。入場料30元。

 高さ300mくらいの丘であるが単独峰で、旅順湾が手に取るように見える。(但しこの日は曇りで湾ははっきり見えなかった。)入り口の看板に「この戦場での死者、日本側1万人、露側五千人」と書かれている。このちっぽけな丘を取ることに一万五千人の人間が死んでいった。確かに旅順湾はよく見え、山の彼方から盲撃ちする日本側砲撃の照準を合わさせ、結果としてウラジオストック艦隊を消滅させたわけだから、戦術的意味はあったのだろう。そして日本が欧米列強や東方諸国に認められ、第二次大戦に突き進んでいく原点を作った場所であることを考えると、思いは複雑になる。停戦の噂が流れたとき、トーチカの外で日露両兵士が抱き合って喜び、そのまま水師営の酒場に流れ込んだという話が、わずかに心をなごませてくれる。(N氏曰く、「昔来たときは、トーチカ跡が山のあちこちに残っていた。最後のせめぎ合いの頃には、コンクリート壁一枚を隔てて両軍兵士が守備し、弾が飛び交わないときなどお互いに足りない物を、たとえば「おうい、サケ缶ないか?」とか「米をくれえ」とか言って物々交換していた」という話を聞いた。)

 観光地に行くとき、歴史的背景を知らないと全然わからないことが多い。旅順については司馬遼太郎の「坂の上の雲」と児島襄の「日露戦争」が有名。

 旅順の外国人立ち入り制限について。なぜ制限があるかと言えば、旅順は現代の軍港だからと言われる。旅順港のすぐ外側に海水浴場があり、そこで泳いだ時など、確かに軍艦や潜水艦の出入りがよく見えた。

 軍事機密を守るために外国人を入れないとすれば、なぜお金を払えば入れるのだろう。「旧ロシア監獄」や「博物館」に行こうとすれば、以前なら許可証を取れば入れた。500元という高いお金を要求されるが。お金を払えば、軍事機密も見せてあげようという意味だろうか。

 さらに、以前は(多分今も)許可証があっても「白玉塔」には入れなかった。しかし「白玉塔」に上ったことのある人は今回旅行団5名のうち3名いた。私自身十数年前に遼寧協会の旅行団で来たとき、上ったことがある。あれは特権的待遇だったのだろうか。

 非常に現実的なことを言えば、少し中国語を話せる人なら、タクシーでいくらでも旅順にいけます。街の中のどこにでも、「白玉塔」でも行けます。許可証なしに博物館や旧ロシア監獄を見学してきたという話もよく聞きます。

 ということで、軍事機密が理由なら、現在の許可証制度は何の意味もないことになるでしょう。お金を集めることが目的なら、500元という法外な金額をふっかけずに、たとえば50元くらいにすれば、数十倍の人たちが訪問し、結果としてたくさん儲かることになると思います。(誰か薄市長に伝えておいていただけませんか?)

 

 ●瀋陽から秦皇島へ

 朝8時半に瀋陽を出発し、10人乗りワゴン車で秦皇島に向かう。

 鉄西区西側の開発区を過ぎると田舎道へ。田舎道と言っても、歩道を含めて片側6m、街路樹付きの立派な国道です。前に遮蔽物がなければ、車は80km100kmくらいで走っていました。

 車の行方をさえぎるものはいろいろで、農耕用運搬車(時速30kmくらい)であったり、ラバが引く荷車(同4kmくらい)、古いトラック(同30kmくらい)、荷車付きの自転車(同6kmくらい)だったりする。私たちの乗った車は、左の追い越し車線を走り続けたり、向こうから車が迫ってくると右側の歩道を追い越しに使ったりする。見ていると心臓が悪くなるので、寝ることにする(単に眠たかっただけかも知れない。)

 景色はほとんどが農地で、トウモロコシ、小麦、大豆、ジャガイモが多い。ポツポツと畑の中で耕す人、農道を歩いていく人が見える。

 時々都市に入る。ある都市では「××おばちゃんのアヒル・鶏の薫製」看板が街の端から端までかかっている。この街では人々は薫製で生きているのかと思ったり、街中に看板を張りめぐらしたおばちゃんに感心したりする。

 途中、道路工事によく出会った。数kmくらいの長さにわたって、山を削り道をうがつという感じの大道路工事をしている。工事中の本道があり枝道があり、運転手も煙る土埃の向こうを確認しながら、せこく脇道に向かう車をにらみ、どちらが早いか計算しながら走っている。

 瀋陽から秦皇島までの間に数回の料金徴収があった。高速道路は1回だけで、他は一般国道。ここでは普通の国道を走るのに通行料金を払う。それぞれ1015元くらいだった。

 瀋陽から錦州までが約300km5時間、錦州から秦皇島までは高速道路で、約200km2時間で。この高速はできたばかり(約1年)で、片側3車線、大きなパーキングエリアもあり、素晴らしい道である。2年後には錦州−瀋陽間も完成するという。

 この500km8時間の区間を、サービスエリアに入ってのトイレ休憩は1回もなく、会長の「おいそろそろだぞ」のかけ声で、雄大な平原を眺めながら気持ちよく用を足させてもらった。