太陽島公園 氷の彫刻 氷の彫刻


99年夏・中国東北部訪問記 
その2・ハルビン

−「中国帰国生」の故郷で考えたこと− 上神谷高校教員 松川 貴彦

今夏、図們・ハルビン・長春・瀋陽を回られた松川先生の訪問記を3回連載で掲載します。中国東北部の事情がよくわかる訪問記です。今号は第2回。

1. Tさん夫妻との出会い

 夜行列車がハルビン駅に着いたのは、翌8月21日、朝4:30分。まだ夜が明けず、少し暗いプラットホームに降りた。このあたりで「暗殺」されたのだろうか?と思いながら歩いた。伊藤博文が「暗殺」されたのは、1909年、雪の降る日だったようなことを読んだ記憶がある。この日は小雨がふっていて少し肌寒かった。改札をでて人込みの駅前を私たちはホテルに向った。部屋に入った私たちは仮眠をとり、7時過ぎに朝食をとってホテルを出た。

 相変わらず小雨が続いていたのでタクシーに乗った。 ハルビンは中国最北、そしてロシアに最も近い省都である。そして一時ロシアに支配された歴史をもつ。タクシーを降りて少し遠めに見た聖ソフィア寺院は、確かにロシアの雰囲気を醸し出している。そんな雰囲気を楽しもうとしてあることに気づいた。この寺院前で流されていた音楽は、聞きなれた日本のナツメロ、「長崎は今日も雨だった」「北国の春」であった。少しガッカリ?した。続けて近くの兆麟(ちょうりん)公園に行った。あの「氷祭り」で有名な公園である。夏休みなのでそんなものは当然ない、と思っていた。ところが少し大き目の建物の中で、「室内氷祭り」がおこなわれていた。分厚いジャンバーを着て中に入った。その瞬間、「寒いー」と感じた。まるで冬の ハルビンである。中には「氷の滑り台」もあったりしてけっこう楽しめた。

 さて10時過ぎに私たちはホテルに戻った。そして11時、ハルビン在住のTさんご夫婦とロビーで待ち合わせた。さて、この方たちは、大阪にいる私の友人のご両親である。この友人とは、今年6月あるアジア料理の会で出会った。その時、この旅行の話しを切り出して「ハルビン市内と731資料館を、ご両親に案内してもらえないでしょうか?」と私はあつかましくも頼んだのである。「両親とも、退職しているので喜んで案内してくれるでしょう。私からも頼んでおきます。」とありがたい返事をもらった。そんなわけで、ホテルのロビーが初めてのTさん夫妻との出会いである。落ち着いた感じのお父さんと元気そうなお母さんであった。コーヒーを飲みながら、お互いに挨拶と自己紹介をした。お父さんは、昨年まで電子関係の会社で日本語の翻訳をしていた。だから日本語を少し話せる。お母さんは小学校の生物の先生であった。そんな話の後で、「午後から一緒に、731資料館に行っていただけますか?」とお願いした。「もちろんいいですよ。」と快くうなずいていただいた。少しはやかったが、私たちは近くでうどんのようなラーメンを昼食にとった。

2. 731資料館へ

 昼食が終わった12時半頃、タクシーで731資料館へ向った。道は渋滞していて、普通なら30分で行くところを2時間近くかかった。「往復で100元」と決めていたので、運転手は停止中に時々ぼやいていた。さて建物の前に立つと、さすがにりっぱな印象を与えてくれる。この館は新しく建てられたものであるが、その費用の多くは日本での「七三一部隊展での寄付」からのものである。中に入った印象を言う前に、731資料館(正確には侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館)を説明しよう。

 「満州第七三一部隊が、1936〜45年までここで細菌兵器の研究開発を行った。『マルタ』と呼ばれた中国人やロシア人が人体実験のために虐殺された。終戦直前、罪の隠匿のため建物は破壊され機密資料は焼却されてしまった」(「地球の歩き方・中国東北地方」より)

 日本であった展示会、そして関連のビデオや本でだいたいのことは調べて知っていた。ショックであったのは、その内容よりも展示そのものの貧弱さであった。ひとことで言えば、「お金をかけていない」である。これは ハルピン市の平房区(日本で言えば平房町もしくは平房村に当たる)が管理しているからであろう。そんなこともあって見学者が入っていない。私たちが行ったのは土曜の午後である。市内から20Kmも離れており交通も整備されてないこともあるが、1時間少しだが見学者は私たち4人だけであった。

 静かな館内で、私はTさんご夫婦にこんな風に気持ちを出してみた。

 「七三一部隊の歴史は、きっちりと保存し多くの人が見学し学べるように…予算計画はないですか?」さらに続けて、日本での原爆資料館とか記念式典のことを説明した。言いおわった瞬間に、Tさんが中国人で自分が日本人である、という立場もわきまえずに話したことを後悔した。

 私の言葉にいろいろと思ったであろうが、Tさんは少し論点をずらしてこう返事をしてくれた。

 「七三一部隊と原爆は少し性格が違うと思います。七三一部隊は日本の軍国主義そのものです。そして原爆は日本の軍国主義の結果です。」

 「昔の日本と今の日本は違います。日本は生まれ変わりました。ただ最近、軍国主義をなつかしんで昔の日本に戻そうとしている人たちがいるようですが…そのことはどう思われますか?」

 Tさんは丁寧に婉曲的に言って下さったが、ストレートに表現すれば以下のようになるのであろう。

 「日本では原爆・核兵器だけが悪であるかのように扱われているが、本来的に悪いのは軍国主義である。時には(もっと言えば中国の)原爆・核兵器は侵略から国を守るためのものである。日本での軍国主義の動きにしっかりと反対して欲しい。」

 私は少し一般的だがこういうまとめをした。「日中友好のためお互いに友人を増やしていくことが一番大切だと考えています。」この言葉にTさんはうなずいて微笑んでくれた。もう少し見学したかったがTさん夫妻を家まで送ってホテルに帰った。部屋で何気なくテレビを見ていると「日中合作映画・南京1936(ビデオ店にもある)」が放映されていた。日本では8月のヒロシマと敗戦記念日だけであるが、中国ではこの手の映画がいつも放映されてる。

3. Tさん宅でのごちそう

 翌日午前中、市内見学をして、昼前にTさん宅に向った。社宅の団地前までTさんは迎えに来てくれた。古い社宅なので外見的には少し乱雑な感じがあったが、中に入って驚いた。日本の新築マンション並みである。しかもご夫婦二人の生活ということもあって、部屋はとても片づけられて美しかった。昨年部屋の中を改築されたそうである。早速、住宅事情を聞いてみた。Tさんは電子関係の仕事を長いことしていたので、かなり優遇されているらしい。

 「この部屋の家賃は、私が働いている間は月20元(300円)ぐらいでした。一昨年退職した時に、購入したんですけど2万元(30万円)でした。会社で上役であったから安く購入できるんです。」

 この数字だけを聞くと、一件の家を買うために一生ローンにしばられる日本人の苦労が、バカらしくなった。

 そんな話が一段落して、奥さんが用意してくれたテーブルにむかった。家庭風?中華料理のフルコースである。感謝したのは、胃の調子が少し悪い私に、唐辛子抜きの料理をつくってもらったことである。しかし、そうした心遣いとは別に、Tさんはビールを強く勧めてきた。この中国の旅でビールを口にしたのは、この時だけである。ちなみに ここのハルピンビールはとても有名で、都市別の消費量では世界第3位である。乾杯にコップ一杯だけ注いで頂いた。少し淡い味がした。お腹がふくれかけた時、大皿に餃子が出された。さらに続けてすいかがたっぷりと。「ありがとう。もうこれ以上食べると病気になりそうです。」と返事をしながらも、すいかを数切れ口に運んだ。

 「そろそろ時間かな」と思って、「伊藤博文・暗殺事件」のことを少したずねた。その時、「暗殺者の安重根(アンジュグン)」について聞いてみた。Tさんご夫婦も通訳のR君もともに朝鮮族であったので、いろいろ話が聞けると思ったからだ。ところがここで少し意外な反応があった。 「安重根は知らない」とR君が言ったのである。安重根は朝鮮民族にとって抗日運動の英雄である。だから中国とは言え、朝鮮族のR君は当然に知っているものと思っていた。そのことに驚いた私は、ここでも調子に乗って「民族の英雄はしっかりと勉強しておいて下さいよ」と話してしまった。Tさんが助け船をだした。「私たちは中国人なのだから、抗日の英雄は沢山いる。少数民族の英雄にこだわる必要はないのです。R君はとてもよい学生さんですよ。」

5日間一緒だったので、 R君とは遠慮なく話すことができた。が、立場の違いはしっかりと押さえておかなくては、と反省した。Tさんご夫婦に何度もお礼をしてその家を後にした。続けてそのR君ともお別れである。彼は新学期の授業をサボるわけにはいかないので、一足先に瀋陽に帰ることになった。 ハルビン駅で彼は何度も「先生、本当に一人で大丈夫ですか?私といっしょにこのまま瀋陽に帰りませんか?」と言ってくれた。本当にありがたい通訳であった。

4. 太陽島公園の休日

 R君を見送ったのが午後2時。「さて、これから少し気をつけて行動しよう。」と、一人になった私は気を引き締めた。翌日は丸一日オフである。ゆっくり太陽島公園で休もう、と思っていた。そこで下見に出かけた。太陽島公園は、松花江を船で渡った所にある。1時間以上はかかるので、松花江手前のスターリン公園まで行くことにした。スターリンという「社会主義の英雄」(世界的には、悪いイメージの怪物という評価が定着している)の名前がいまだにのこっている。なんとなく中国らしかった。その名前の印象からその公園へは気が向かなかったのだが…。

 その途中の中央大通りぐらいから、天気が回復して青空が広がってきた。少し歴史的な感じのする欧風建築と近代的なアメリカ資本(例えばマクドナルドなど)とが並んでいるその大通りは、「ここが本当に中国なのか? ハルビンなのか?」と思わせた。そんなイメージのまま通りは、スターリン公園に続いている。松花江沿いの公園ではボート遊びに遊園地、広場では若者がローラースケートを楽しんでいる。もちろん若いカップルは、いちゃついている。そろそろスターリンという名前は変えた方がいいのではないか。とも思ったが、それは私が日本人だからであろう。 

 翌日は5時すぎ起床。部屋のカーテンを引くと真っ青な空が広がっていた。ホテルで朝食をすませ、7時過ぎに太陽島公園に向った。松花江を1元(15円)の小船で渡った。対岸では避暑地のようなホテル・建物が目に付いた。15分も歩くと太陽島公園である。中に入るとお花畑が広がっていた。少し歩くと日本庭園。ハルビン市と新潟市が友好を目的につくったものである。中に入ると日本語の音楽がかかっており、けっこう入園者は楽しんでいるようであった。そしておもしろい企画に、日本の着物?ゆかた?を貸し出しているのがあった。これもけっこううけていて多くの人がそれを着ていた。ただし、あの着物は日本的イメージからかなりずれているのだが…。まあ、それは善し、としておこう。日中友好の大きな石碑の前で記念写真を撮ってもらった。遊園地もある公園は広く、たっぷり一日過ごせた。ただレストランが少しさびしく物足りない感じである。前日のTさん宅のごちそうで私はお腹が満足しきっていた。で、その時はパンとコーラで十分であった。そんな昼食をすませて木陰のベンチに座った。目の前のお花畑を眺めながら、夏の終わりのさわやかな風を楽しんでいた。そのうち食後の睡魔が襲ってきた。1時間ほどまどろんだ私は目覚めの散歩をして公園を出た。   続く)


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