北陵(昭陵)


 
北陵は、清朝二代目皇帝・太宗ホンタイジと孝瑞文皇后の陵墓であります。

 ベイリンと発音される北陵は、地名と公園として市民に親しまれ、正門の前にある大きく立派な牌楼は、瀋陽の街のシンボルでもあります。早朝は、牌楼内の公園が市民に無料で開放されているため多くの市民の太極拳、剣舞、ジャズダンスなど多様な楽しみの場にもなっています。  また町の北に位置し、多くのバスの発着地点でもあり多くの人が集まる所ですから、これだけでも観光スポットであります。

 太宗ホンタイジは、1643年8月9日に崩じました。9月20日には宝城や宮城がひとまず完成し、そこの安置され、翌年8月11日には埋葬の礼が行われ、昭陵と名付けられました。

 後継者として、子の6才のフリンが順治帝として即位し、叔父のドルゴンが摂政として才腕を降ることになりました。情勢は急変し、1644年3月に明が李自成により滅亡し、ドルゴンは、山海関を守備していた呉三桂の案内で、ヌルハチ以来の念願の入関を果たし、北京入城がなされ、9月には遷都しました。それに伴い瀋陽・盛京城は、陪都となりました。

 1949年、太宗の皇后の崩御によりその翌年合葬されました。このころに北陵・東陵の本格的な造営工事がなされました。従って両陵は、同じ設計者の設計のようで非常によく似たものとなりました。合葬されたのは、順治帝フリンの生母ではなく太宗の皇后で、生母は、北京郊外の東清陵でに葬られています。これは、生母がドルゴンと再婚したことによります。