永陵 |
永陵は、ヌルハチから四代前までの皇帝と皇后の陵墓であります。 いまは、瀋陽から撫順まで高速道路です。撫順から永陵までは、永陵街道を呼ばれ、乾隆帝がその東巡のために整備したものですが、現在は舗装された立派な道路であります。。道路から100メートル以上引っ込んだところに門が見えました。幅の広い参道の両側はなにもなかったので、気がつかなかったのも無理がないと思ったものでした。 門をくぐると、ほかでは見たことがない四座の碑亭(功徳碑を入った)が東西に並んでいました。4組の皇帝皇后の陵墓であることを如実に意識さされました。一番奥の建物(正殿・啓運殿)の裏側に出ますと、直径1メートル位の半円球の土饅頭(墳丘)5個が頭弧を描くように並んでいました。4つでないと計算が合わないのですが、確か説明員は、遺体のない方があり、その方の遺品を葬ってあるとのことでした。見学が終わって門の外から改めてみますと、後ろの山(啓運山)は、京都の東山のように峰が続いています。説明によると、山の峰が龍の寝ている姿ようであるので、皇帝の墳墓によいと決まられたと云うことです。ここでも前が川、後ろが山という風水に基づいています。 ホンタイジが皇帝を名乗ったときに、ヌルハチを太祖皇帝とし、その先祖を王としたのでありますが、順治帝の時代に追尊して、 肇祖原皇帝・原皇后 興祖直皇帝・直皇后 景祖翼皇帝・翼皇后 顕祖宣皇帝・顕皇后 となったのであります。 1622年、ヌルハチが遼陽城より東京城に遷都したときに、ここを興京陵とよび、肇祖と興祖を葬り、東京城の近くに父(顕祖)と祖父(景祖)の墳墓を移し東京陵としたのでありますが、順治15年(1658年)、この2祖のをまた移して4祖の陵とし、永陵としたのであります。 建物は、東巡の度、何回も改築修繕されていくあいだに漢文化の影響を受けたものになっていきました。 |