へトアラ城址

 永陵を見たあと車で西へ向かうと新賓の方向に走っていることがわかった。まもなく大きな看板で「老城」と書かれ右折が指示されていた。右折すると蘇子川にかかる大きな橋がありそれを渡り数百メートル行くと、トウモロコシ畑がなかほどまである丘の側面に沿って左折し、それを登り急に右折した。車の正面に3人の農婦が古びた木机をまえにして座っていたのが、大声で何か叫んでいたのを案内人の人は一言二言大声で話して、その声を無視して奥へ進んだ。どうも入場料を払えということだったようだが、案内人が地元の人だったので、俺のお客だと云って無視したようである。写真を撮るのをはばかるほど粗末な住居があり、それを過ぎるとお寺があり拡張工事中だった。それと隣接したところが宅地あとがあり、一つの「旗」の建物あとだという説明が書かれてあった。そこから下を見下ろすと一面トウモロコシ畑が広がり、山で囲まれた盆地であることがわかった。奈良・明日香村の甘樫の丘に登ったときの記憶がよみがえった。天然の要害にに囲まれ、山の要所に見張りを置けば、守備には絶好の場所のように思えた。また、丘の上に井戸のあとがあり、蓋がされていて中は覗けなかったが、丘の上だけに、湧き水よるものものであろう。大勢が駐屯するには欠くべからざるものである。殆ど説明らしいものも受けず、看板もないため、何がなにやら分からないままそこを後にした。
 
 2000年6月に再訪しましたら様相は一変し、門が出来て、正式の入場料を払いなかにはいると池があり遊びのボートが浮かんでいました。ヌルハチの居所(宮殿)らしい建物も建てられいた上、一帯は史跡公園と言った趣に変わっていたのには驚いた。
 
 以下に少し長くなりますが、司馬遼太郎の韃靼疾風録を読むと、変に復元され、手を加えられるより、文献を見ながら、想像力を逞しくした方がよいのではないか思われます。
 
 司馬遼太郎が当地を訪れたかどうか調べましたが、その形跡を見つけることが出来ませんでした。収集した資料に基づく創作と思われますが、この本には、ヘトアラより前の城・ヘアラのことも書かれてありますのでそれも含めて引用しておきます。
 
 
司馬遼太郎「韃靼疾風録」瀋陽へ

 その小さな野を見下ろしつつも、そこへは下らず、べつの丘に向かって歩いた、その丘に至ると、構造物が点在していることを知った。幾重にも木柵が植えこまれ、まれに低い石塁があり、女真族の家屋にしては大きい草ぶき屋根にしばしあっぶつかった。それがアビアのいう城(ホタン)らしかった。
 
 大きな屋敷にはかならず木柵がめぐらされ、かつまわりに多くの小住宅群が小さく密集していた。そういう小住宅群も環柵柵をもっており、一見して家臣団の家々であることがわかった。
 
 ただ、すべてが古び、半ば朽ちていた。そのうえ、人影を見なかった。…略…
 
 家屋についていうと、この宿舎だけは、構造がしっかりしていた。
 
 壁には横材が五、六本横たわっていて、そのあいだに小石が積まれており、あとはあらっぽくシックイで塗りこめられていて、殺風景であったが、火の害にはつよいだろうと思った。
 
 「これが、アビアのいう砦だったのか」
 
 庄助がつぶやくと、アビアがわざと無感動にいった。
 
 「いいえ、宮殿です」
 
 それも、大汗ヌルハチの宮殿だったという。この人物は小勢力の貴族(ベイレ)から身をおこしこのあたりの盆地の女真勢力を斬りしたがえたときにここに山城を築いた。かれの二十九才のときで、以後十六年間、ここに拠っていた。その後、川をへだてたむこう(北方)にやや規模の大きい山城を築いて移った。新城は漢名で興京老城といわれる城で、これに対し、いま庄助らがいるふるいほうは、後世の史家から旧老城とよばれている。…略…
 
 三日後に、庄助らは出発した。
 
 半日行程で、本城ともいうべき山城(興京老城)に着いた。ここもさきの山城と同様、女真式の簡素な柵城で、漢民族の城のようではない。
 
 ヌルハチがすんでいたという宮殿も見た。平屋だった。屋敷のすみに望楼や鼓楼をあげていたが、装飾性は無いにひとしく素朴な剛毅さがめだった。ほかに諸将や士卒の屋敷が多く、いわばこの山ひとつが、女真軍団の駐留地とい
 
 う感じだった。城下町などなく、従って商人は住んでいない。ただ、職人はいるようで、庄助も鍛冶屋の家の前を通った。もっとも、無人だった。
 
 道はみな山道で、馬一頭が上下できる程度のものである。