サルフの古戦場址 |
明は、女真族に対して撫順以東の地域に封じ込め、開原の馬市で商業的利益を与えるとともにその利害関係を利用して分割統治をしていたのであります。ヌルハチは、女真族の統一を図る過程で、明から懐柔策である竜虎将軍称号などを与えてきた(1595年)のでありますが、ヌルハチは、1616年、後金国を樹立しハンの位に昇り、翌々年(1618年)には、明に対して7つの恨みがある(七大恨)として、宣戦布告を行ったのであります。明の直接統治の地域にも、ヌルハチの攻撃の魔手がのびてきたため、ついに、明は、1619年1月、ヌルハチ打倒の大軍の派遣を決し、公称47万人(実際は20万人)の豊富な火力を有する大軍を東西南北からヘトアラに向けて進発させたのであります。これにたいして、ヌルハチは、火力を持たないが地の利があり戦闘経験豊富な8旗6万人(1旗7,500人)の兵でこれに対したのであります。ヘトアラ城は、明の火力に耐え得るような城ではないため、もとより籠城は考慮の外でありました。ヌルハチは、その情報網から、敵の各部隊の進軍状況を的確に把握していたため、東と南からの山岳地帯を通ってくる敵軍に対して、わずかの守備兵を配置しておいて、瀋陽・撫順方面からきた敵の主力部隊を70キロ東のサルフ山において迎え撃ち、それを壊滅させたうえで、ヘトアラに帰り、東と南の敵軍に対したのでありますが、すでに主力部隊が壊滅しているため、朝鮮からの支援部隊は投降したり、北の支援部隊は、途中で引っ返したりしてこともあり、サルフでの勝利が戦闘全体を支配したことになりました。 今後は、火力に勝る明都の戦闘を想定して、険しい崖のあるジャイフィヤン山頂に都を遷したのでありますが、狭いため翌年にはサルフ山頂に移ったのであります。さらに翌年には、遼陽城に移転しました。 |