瀋陽故宮
 
 
 北京の故宮を見られた方は、その広さと建物等の豪壮さにおいて著しく見劣りするのに驚かれるでしょう。しかし、それは、清朝が北京に入る(入関)までの宮殿で、北京を都としてからは各皇帝が先祖の墓参と出身地を巡る(東巡)際に立ち寄るにすぎない陪都の宮殿で、それでも大清国の皇帝が必ず立ち寄るところから、中国風に整備されたものです。

 当初の形態は、創業の時代で、しかも戦いに次ぐ戦いの連続の時代で、山岳地帯で半農半猟の女真族の宗教・文化を反映したものでありました。

 1,それを最も現れているのが、入門して右側(東)に、八角形の太政殿とその前に左右五つある十王亭であります。太政殿の八角形というのは、女真民族特有のものであります。この建物は、太宗、世宗の二帝の即位式が挙げられたところでありますが、普段は太政(軍政)を議する重要な殿であります。十王亭は、二王(右翼王亭と左翼王亭)と八旗の王亭で、二王・八旗亭の云う方が正確だと指摘されております。

 この八旗の兵制は、ヌルハチが、狩猟の際の体形を発展させた軍事組織で政治、経済、社会の基本組織でもありました。(江戸時代の藩に似た組織) この軍事組織が、鉄砲、大砲などの装備の勝る明の出先の軍を倒していったのであります。太政殿でヌルハチを中心に十王が軍議している間、各旗の幕僚が王亭で待機し、ときには、ヌルハチが全員を広場に集めて訓辞や、命令を発した光景を想像するのも面白いではありませんか。

 ヌルハチは、1619年の明との決戦であったサルフの戦い以後、同年にジャイフィヤン城に、翌20年にサルフ城に、またその翌年の21年に遼陽城に、更にその翌年の22年には東京城にと毎年遷都し、また、25年3月に瀋陽城に遷る命令を発し、26年2月に戦闘で負傷して帰城し、7月には温泉療養に行き、その帰路の8月11日に崩じたのでありますから、瀋陽故宮にいたのは、1年半にもならないのです。

 2,中央のの部分には、大きな主な建物として、崇政殿、清寧殿と鳳凰楼があります。崇政殿は日常の政治の行われる所で、朝見の儀式や饗宴などが行われた正殿であります。清寧殿は、皇帝や皇后の起居する内廷で、女真族の風習を反映している場所であります。それは、入り口が少し東にずれていることと、中央から西にかけて広い部屋を設け、コの字型に燗を巡らしている点であります。この清寧殿は、皇帝・皇后の居所ですからヌルハチの時にも当然あったと思われますが、本格的なものは、太宗ホンタイジの時に建てられたものです。清寧殿の前にある四つの小さな建物は、太宗の妃・四人の住居です。

 高台に三層にそびえている鳳凰楼は、一種の宝物庫で、一層は門で、二層は諸皇帝の金や玉の宝物を、三層は歴代皇帝の肖像画や絵画を蔵するところであったようです。この建物は、様式から見て乾隆帝の時代に建てらものです。

 3,内廷の塀を隔てた西外側に崇謨閣という乾隆年間に建てられた古文書館があります。ここに、1907年8月に新聞記者の内藤湖南が訪れ、清代初期の記録で、満州文字で書かれた「満文老档」を発見し、清代史研究に欠くことの出来ない資料であることを痛感しましたが、資料が膨大なため後日に期したのであります。内藤湖南は、その前の1902年に蒙満文の知識の必要を感じ、北京でその独習をして1905年には修得していたため、この発見につながったのです。1912年3月京大教授となり、羽田亨(後に京大総長)とともにその4月に再訪して、その月の12日から25日までかかって、それを写真撮影したのであります。その乾板は、約4,300枚にも達し、これがその後の清代史研究の基礎資料となったのであります。この崇謨館にあった貴重な歴史資料は、遼寧省政府内にある遼寧省档案館(元・東北大学図書館)によって保管されているようであります。

4,左側の部分の建物群で、最も注目すべき建物は、乾隆帝の勅命によって編集された四庫全書を納めるだけのため、乾隆46年(1781年)に建てられたのが文溯閣であります。外観は切妻屋根の二層のようになっていますが、内部は三層に分かれています。他の宮殿と異なり黒の釉薬瓦を葺き、棟に雲と波の文様の彫刻をつけた瑠璃瓦をのせているのも特色といえます。また柱などにも朱色を塗らないですべて黒色をぬり、梁などに書籍などの装飾画が描いてあるのも書庫らしい扱いといえます。乾隆帝が日常的に使用する北京の紫禁城と円明園(英仏軍により全焼、全焼)、承徳(熱河)の避暑山荘と並んで、この宮殿に書庫を建設したことは、北京遷都(1644年)後100年を経てもなお重要な地位を占めていたものといえます。


八旗 はっき 

 当初は、成年男子300人で1ニル、5ニルで1ジャラン、5ジャランで1グーサすなわち1旗(7,500人)とされ、旗色は、黄、白、紅、藍にそれぞれ縁取りのある黄、白、紅、藍と八旗に分けられました。この四色は、黄は土徳、白は金徳、紅は火徳、藍は水徳をあらわし、五行相勝の思想に基づいています。後には、満8旗の他に蒙8旗と漢8旗が編成されました。


四庫全書 しこぜんしょ

 中国清の乾隆帝時代に編集された一大叢書であります。経、史、子、集の四部に分類され、3、458種7万9,582巻の大部にのぼります。乾隆37年(1772年)の詔によって同年四庫全書館が開設され、紀ホ(きいん)をはじめ数百人の学者が動員されて10年の年月をかけ同46年に最初の一組が完成しました。それを納める書庫も建設され、北京の紫禁城内の文渕閣をはじめ、熱河離宮の文津閣、北京郊外の円明園の文源閣、奉天宮城の文源閣(文溯閣)の4閣が建てられました。また民間の利用も考慮し、揚州に文匯閣、鎮江に文宗閣、杭州に文瀾閣を建てました。しかし太平天国や義和団などの戦乱によって失われたものも多いのです。

 この四庫全書について和辻哲郎は、このような大編纂事業が「古い文献の保存を可能にしそれによって後代に与えた影響ははかりしれない」としつつも「その外観の秩序整然たるに反し、その内容においては雑然たる材料の山積であるといってよい」といい叢書とはいえないと評価していますが、これは二律背反であり、前者を重視したものと考えるべきものであろう。

 四庫全書の編纂は、清朝にとって都合の悪い文書を改竄したり、廃棄処分をしたりする役割もあったのであります。特に、ヌルハチが当初から太祖皇帝であり、「金国汗」と称していたことなどが改竄され、満族が粗野で残酷であったなどと誹謗する文書などは廃棄されたのであります。


内藤湖南 ないとう こなん(1866-1934)

 東洋史学者。本名、虎次郎。秋田県立師範学校卒業後上京し、初め雑誌「日本人」の編集に従い、のち「大阪朝日新聞」「台湾日報」の記者として活躍、1898年「万朝報」の主筆、1907年京都大学東洋史学教授。中国史の研究、敦煌文書調査など資料採訪を行った。中国の内外の状況変化が著しい中、深い歴史認識に立って多くの論文を発表し指導的役割を果たした。


満文老档 まんぶんろうとう

 中国、清初の太祖、太宗2代について年代順に記した満州文の古記録。180巻。もともとは開国伝説から記録されたものと考えられるが、現存のものはこれを欠き、明の万歴35(1607)〜崇禎9(36)年の記録が残っている。ただし、この間にも数年分の欠如があり完全とはいえない。しかし実録の草稿といえるその内容は、満州族固有の政治、社会、習俗などを知る貴重な資料である。(ブリタニカ・国際大百科事典6−234)

 日本においては、内藤湖南が写真撮影をしたアルバムをもとに1963年、神田信夫らの「満文老档研究会」によって、財団法人東洋文庫から全7冊が完訳された。すべて原文をローマ字に転写して遂語訳を付け、さらに意訳を添加している。個々の論功行賞や処罰の事例まで記載されている。


ヌルハチ(奴児哈赤) 1559〜1626 太祖

 瀋陽から東へ約200キロ、渾河の支流・蘇子川上流の盆地、ヘアラ、ヘトアラ(文献によってはホトアラ)を根拠地として、建州女真の一部族の酋長であったヌルハチの祖父と父が謀殺されたのを契機に、わずか30人の手兵で敵討ちのための挙兵をした(1583年)。当初は、明の武将(1595年には明の竜虎将軍に任じられる)として勢力を拡大しながら明によって分割統治されていた女真族をまとめ、1616年、後金国を建国し、ハン(汗)位に登る。決別された明は、10万の兵をヘトアラに向けて出兵したのを受けて、ヌルハチは、サルフの戦いで勝利し、遼東(遼河の東側)の支配権を確立し、さらに遼西の寧遠城を攻撃中負傷して、1626年、温泉治療からの帰路、瀋陽城外で没した。八旗の兵制で軍事行動の経済的基盤を確立するとともに、その基盤を補強するため、占領地の人民を拉致して奴隷とし、兵として割かれた労動力を補充した。 

 また厳格な信賞必罰を以て望み、その統率力および統治を盤石のものとした。建国前の1599年に早くも蒙古文字を手本として、満州文字の創作をてがけ、弱小勢力の時代から国家建設の展望を抱き、清朝300年のその体制の基礎づくりをした不世出の英雄といえます。

 私見・ヌルハチの挙兵(1583年)から、ドルゴンの北京入城(1644年)・中国本土支配に至る(1681年、三藩の乱終結)過程は、日本の織田信長の「桶狭間の合戦」(1560年)から徳川家康の江戸幕府確立に至る(1615大坂落城・1638年島原の乱落着)過程と若干の時間的ずれがありますが、それを重ねると非常に興味深いものがあります。信長と家康の長所を合わせたように思われます。豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592年)は、明の朝鮮の支援に多額出費が増税の一因に、それが国内の反乱の引き金なったことと、1644年江戸幕府が明の援軍要請を断ったことなど関わりもありました。


 ホンタイジ 皇太極 太宗1591〜1643 在位1626〜1643

 ヌルハチは、長子を一度後継者に指名したことがありましたが、皇太子の横暴がありましたのでこれを廃し、皇太子の制を定めなかった。定められていた継嗣たるべきものから諸王諸大臣の朝議によって後継者には、第8子、第4ベイレ、ホンタイジが選ばれました。

 ホンタイジは、後金国の存亡を賭けた「サルフの戦い」とそれ以後の戦闘において著しい戦果を挙げて、部族衆の賞賛の的になっていたので、当然の帰結といえます。ただヌルハチの寵妃アルバフジンの子で聡明な15才の第14子のドルゴン(後に順治帝の摂政となり、幼少の皇帝に代わって北京入城する)が生前、ヌルハチの意中の後継者であることは、諸王諸大臣の衆知のところでありました。アルバフジンが発言権の大きい年長の王のダイシャンに息子ドルゴンを後継者にするため賄賂を贈っていたことが発覚していました。野心的な寵妃の行動が部族の混乱の原因となると憂慮し、ヌルハチは、その死の直前アルバフジンに殉死を命じたのであります。この情に流されないヌルハチの判断力の凄さを感じます。問題のアルバフジン亡き後の若いドルゴンではなく、ホンタイジが選ばれたのは、戦闘の続く時代であったため、戦闘指揮の実績が支持の原因と思われます。

 即位してからのホンタイジの権力基盤は、諸王諸大臣に選ばれたことから、ヌルハチのような親子関係・君臣という上下の関係ないためまずその強化に努め、八旗の編成替えと各旗に総管大臣といういわば部下の行政官を置き旗主と同等の権限を与え、旗主の力を弱め権力を強化しました。

 明との戦闘は継続しながら、明に協力した朝鮮を討って兄弟関係におき、またモンゴル諸部も支配下に置きました。その際に、元朝の玉璽を手に入れことから、1636年国号を清とし、あらためて帝位に就きました。なかなか臣下の礼をとらない朝鮮を再度討ち、君臣関係としました。 

 遼西での戦いに進展がないため、ホンタイジは、東モンゴルを通り万里の長城の外から内に入り華北地方を荒らし、多くの農民を拉致し、謀略を用いて山海関を守る名将袁崇煥を殺させるなど政治的手腕を発揮しました。また漢人の知識人を多く登用し、明の中央官制をまねた六部なども設置されました。

 瀋陽故宮の中央部分は、その後の大きな補修がありましたが、太宗の時代に造られたものです。

 司馬遼太郎「韃靼疾風録」には、想像力の産物とはいえ、アンバフジンの殉死状況や万里の長城くぐる状況などを理解するのに役立ちます。

  「満州実録」は、ホンタイジの生前の印象について次のように記している。

  殺さずして、威を以て人を養う。仁慈和恵、嗜好寡し。

  みずから法令を守る。吝色無く、およそ国事に勤労せし者には衣物を賜う。

  近臣においても、賓礼を以てこれを遇す。